2014年
渡辺 宏明 先生(74歳)
 
在職期間:昭和39年(1964年)
     4月〜平成12年(2000年)3月
担当科目:国語(小学・中学・高校)
 
 私は、1964年(昭和39年)春、横須賀学院中等部に勤めさせて頂きました。由来、36年の間奉職し、2000年(平成12年)3月、定年を迎えました。その後3年ほど経って、小学部に付設する学童保育・キッズスクェアー「わくわく」教室のお手伝いをさせて頂き、今日に至っております。
多くの先輩、同輩、後輩の同僚の諸兄姉、生徒諸君、父母の皆様には数え切れない程御世話になりました。改めて御礼申し上げます。
 赴任した64年は、東京オリンピックの記念の年で国中が賑わっている時でした。生徒を引率して見学した時のことが昨日のようです。副担として受け持った中3は、4クラス190人程で個性的で才能豊かな人達でした。翌年は、担任の1人として中3、4クラス170人程の学年を担当しました。クラスの1人に鈴木久男先生が長身イケメンの生徒として在籍していました。翌々年も中3、3クラス110人の学年を担任の1人として担当しました。その中に今回お話を頂いた同窓会役員の桐ヶ谷良之君が在籍していました。勤めてすぐの3年間に担当した3学年の3年生500人程は強く印象に残っている人達で、今は皆各地で活躍しています。69年、中学部に所属していた私が、小中5・4制の移行で教科担任制となった初めての6年生を担当致しました。その翌年中1に持ち上がり、翌年再び小6を担当、中1へ、三度小6、中1と担当し、この形は元に戻りました。  その後、私は中学部の教師として定年まで勤めました。その小6〜中1と持ったクラスの同窓会が相次いであり、身に余る歓待を受け、懐かしい思い出に浸るばかりでした。誠に教師冥利に尽きるものでした。小学部から他校へ、中学部から本校へ、小中から他校へ、高等部から本校へと複雑に錯綜した皆さんとの語らいは40年の月日が幻のように蘇り、素晴らしく成長された姿に唯々嬉しく思うばかりでした。
 私は教え子達との関わりの中でどれ程のことが出来たかを考えてみますとさしたることも成し得ず、先導の役割を果たすことも無く、今日を迎えたように思え、忸怩たる思いに堪えません。激しく流れる時を超えて、見事に成長した彼等の中に横須賀学院生としての在るべき姿を垣間見る思いがして、誇りに思うことでした。後期高齢者層に近づく昨今、生きるということに日々を重ねる毎日ですが心温まる出会いを繰り返すごとに、横須賀学院、そして関わる多くの人に感謝の気持ちを表したいと思います。
 
 

 

深澤 義明 先生(高校18期・61歳)

 

在職期間:昭和50年(1975年)4月〜平成25年3月
担当科目:保健体育(中学・高校)
 

 私は、1968年(昭和43年)横須賀学院高等学校に入学して体操を始め、東海大学体育学部を経て、 1975年(昭和50年)母校の体育教師として就職しました。
 2013年(平成25年)3月に退職して1年半が過ぎました。
 学院では生徒とスポーツを通じてたくさんの時間を過ごしたことが懐かしく思い出されます。その中でも、スポーツタイム・クラブ活動の存在はとても大きいです。小学生とは、スポーツタイムという時間にサッカー、ミニバスケットボール、テニス、バドミントン等を一緒に楽しみました。中学生とは、女子バスケットボール部の顧問として休日を返上して練習の日々。高校生とは、サブ顧問としてバレー部、サッカー部、ソフトボール部、バドミントン部で活動しました。また、体操部においては37年間顧問として精一杯指導する事ができ、今は満足しています。私自身、体を動かすことが好きなので小学生・中学生・高校生、それぞれ年齢の違う生徒たちと一緒にプレイできたことは、大きな喜びでした。
 私の今の目標は、全日本シニア体操競技大会で上位入賞することです。ちなみに昨年は、三重県伊勢市で行われた同大会において、年代別の60代で6位入賞することができました。
 現在も防衛大学校で体操部指導顧問として、学生たちと共に汗を流し、アドバイスをする毎日です。6種目の器具を毎日触れることで、筋力維持・技術・感覚が保たれると思っています。
 また、横須賀少年補導員連絡会に属し、ほぼ毎週パトロール活動に参加しているほか、趣味のテニスを友人や家族と楽しんでいます。
この先、いつまで体操と関われるかは分かりませんが、体力の続く限り挑戦したいと考えています。

(同窓会広報誌では、退職が平成26年となっていました。訂正してお詫びいたします)

 
 
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