2016年
中 島 洋 先生(68歳)
 
在職期間: 昭和48年(1973年)4月〜平成26年(2014年)3月
担当科目: 数学(高校)
クラブ顧問 :

卓球部、ハンドボール部、バレー部、写真部、サッカー部、
ソフトボール部、(男子・女子)男子バスケットボール部

 

 私が学院に就職したのは、1973年(S48)、クラス数が三年8、二年10、一年12クラスと急増する時期でした。この年、石川・大槻・河瀬・村岡・中島・浦田・井上美・鈴木久・井上英・藤野・松永の11人が採用されました。
 新任教師のオリエンテーションの時、大きな身体の割にこまめに動き、先生方と妙に親しそうな新人がいました。同期の鈴木久男先生は学院の卒業生でした。
 
 当時、野平先生を中心とするキリスト教青年会(Hi-Y)は学校の宗教行事を始め、擁護施設や老人施設の訪問なども行い活発な活動をしていました。夏のワークキャンプでは、傷んだ校舎や校庭の普請も行っていました。
ワークキャンプには、現役の生徒の他、卒業生や先生方も大勢参加し、野平先生を中心に大変家族的な雰囲気の中で行われていました。
 1974年のワークキャンプでは、4棟(現2号館)とBグラウンドの間の道路舗装を行いました。大量のコンクリートが必要になり、校内ワークでは、初めてコンクリートミキサー車が入りました。道路は、素人工事なので分厚いコンクリート舗装になり、戦車が通っても壊れないのではないかと言われましたが、40数年を経て、大分痛みが目立つようになってきたのは、仕方のないことでしょうか。
 原爆で、ご両親を亡くされた野平先生の広島に対する思いは深く、1975年さいか屋で「原爆の絵展」を開き、翌年の8月Hi-Yの生徒と広島を訪問、1979年の文化祭では「原爆写真展」も行いました。平和を願い、厳しくも優しく愛情を持って生徒に接する野平先生の姿が思い出されます。
先生は何かするときにはいつも「心と身体と頭を使いなさい」と、おっしゃっていました。
五期卒業生の堀田明さんのところで行われる「八甲田ワークキャンプ」にも何度か参加させていただきました。寝泊まりしていた思い出の詰まった教会も今は新しくなっています。堀田さんとともに私たちを暖かく迎えてくださった奥様の志保子さんがこの5月に急逝されたのは本当に残念なことでした。

 1975年(S50)10月10日、学院創立25周年を記念して、「稲花祭」が開かれました。
 午前中はグランドでの競技、午後は各クラス工夫を凝らした仮装で学院前の三笠公園道路に繰り出し、Bグランドで,全校生徒の大フォーダンスで終わりました。
 時の生徒会顧問の藤野先生が、実行委員長の大矢晴夫くんを中心に色々工夫・準備を重ね実施の運びとなりましたが、当日藤野先生は出張のため不在でした。大矢くんが立派に仕切ってくれ、大成功裏に終えることが出来ました。8回ほど続いた稲花祭も諸般の事情でなくなってしまったのは、残念でした。

 少し近況を報告しますと、退職後、癌が見つかり手術をしました。手術後二年程になりますが、さいわい経過は順調で、少し声が出にくくなったほかは、元気に過ごしています。
 退職後は、三眼顕微鏡を手に入れ、近隣の海や池などから水を採取し、珪藻やプランクトンなどを見たり写真に撮ったりしています。望遠鏡で星を見るよりは、天候に左右されず、気ままに見ることが出来、楽しんでいます。
 体力(年齢)的に、高い山は厳しくなっているので、「いるか丘陵」(多摩丘陵から三浦半島へ続く“イルカ”の姿をした丘陵域)の背中からしっぽのあたりを歩いています。
 また、横浜の「こども宇宙科学館」でボランティアもしています。小・中学生が中心ですが、実験や工作の補助などをしています。驚きや感動を素直に表現するこども達は本当に可愛く、楽しく過ごしています。

 長くなってしまいましたが、まもなく70周年を迎える学院で、41年間を過ごさせていただきました。まだまだ書ききれない思い出が、次々と浮かんできます。担当したクラスやクラブのこと、 家族のように仲良くしてくださった先輩の先生方、同僚の教師、いろいろな面で助けていただいた事務や営繕の皆様。すべての方に感謝です。
 街で、学院の制服を見かけると、思わず声を掛けたくなりますが、不審者と思われそうなので我慢しています。 学院が益々発展することを祈っています。    (2016.9.1)

 
文化祭での原爆写真展 準備をする野平先生と青年会の生徒(1979/11/03)
校内ワークキャンプ 4棟とBグランドの間の道路をコンクリート舗装。
中央は藤野先生(1974/08/24)
八甲田ワークキャンプ 1968年に第1回の八甲田ワークキャンプが行われ,途絶えていたが、1975年第二回が再開された。右から、堀田さん、金子慶一先生、奥様、左端は野平先生(1975/08/01)
   
第1回稲花祭 学院前の三笠公園道路を練り歩く3年7組の「御輿」(1975/10/10) 第1回稲花祭 3年12組の「龍舞」、稲岡の地と10月10日の開催日に因み、「稲花祭」と名付けられた。(1975/10/10)
   
第6回稲花祭 Aグランドで行われた開会式、各色の旗がはためく(1980/10/06)
 

 

曽 根 春比古 先生(67歳)

 
在職期間: 昭和47年(1972年)4月〜
平成26年(2014年)3月
担当科目: 社会科(中学・高校)
クラブ顧問: ソフトテニス、ソフトボールほか
 

 横須賀学院に勤めて40数年が経ちました。2年前に退職しましたが、お誘いを受けて、今は、10年ほど前に始まった学院小学校のキッズスクエアで子供たちと楽しい時間を過ごしています。毎週水、木、金曜日の放課後、小学生と一緒にスポーツをしたり、勉強したりと、これまでの教員生活にはなかった経験をさせてもらっています。学院では、高校と中学・中高一貫を担当してきましたが、これで、小学校1年生から高校3年生までのすべての年代の児童・生徒たちとのつながりを持つことになりました。膝の上にのってくるあどけない表情の小学校1年生と私より背が高く森鴎外を勉強する高校3年生、子供たちの成長過程を目の当たりにできたことに感謝します。
 新任の年、1年9組の担任を任され、授業は高校2年の世界史を担当しました。私にとって最初の大きな出来事は、入学間もない頃、クラスでの放送礼拝の時でした。静かに礼拝が始まったのですが、K君が突然、奇声を発するかのようにふざけて讃美歌を歌ったのでした。私は、思わずK君を叩いてしまいました。誰も覚えている人はいないかもしれませんが、今でも、忘れられない苦い思い出として残っています。
 このころの思い出深い行事は、合唱コンクールでした。苦い出来事から始まったこの学年(22期)が3年になった時、9組(22期)が『荒城の月』を歌って優勝をしました。その時の生徒たちの美しい四部合唱は、思い起こすと今でも、鳴り響いてきます。この最初の卒業生たちも還暦を迎えましたが、オリンピックイヤーに同窓会を開いてくれています。今年は、10月9日に予定されており、楽しみにしています。
 このようにして、40年間の思い出を振り返ると幾ら紙面があっても足りません。また、諸事情により卒業できなかった生徒、若くして天に召された卒業生のことを思います。
 ところで、私は、18年間ほど高校を担当していましたが、40歳の年に中学校にまわり、その学年は高3まで担任をしました。この時の体験も私の教員生活の大きな財産となっています。大変なこともありましたが、6年間の生徒たちとの関わりは、人は必ず『成長』するということを私に教えてくれたのです。この生徒たちが、中3の時、合唱コンクールで『春なのに』を歌って優勝したことも大きな思い出です。
 また、私の長男はこの学年の生徒の一歳年下なのですが、彼が中1で病気し、手術をすることになった時、生徒たちは彼に励ましの色紙を書いてくれました。長男は、とても喜び病室に飾っていました。退院した後も、その色紙を大事にしていたことは、息子が40歳になった今でも忘れられません。現在の小学校には、この学年の卒業生4人の子供たちが通っています。体育館、新しい中学校校舎、そして退職直前に完成した立派なチャペルなどその姿は大きく変わりました。しかし、時代は移っても学院の温かな伝統が受け継がれていくことはとても嬉しい事です。退職前には、中学生たちの中には『じいじ』、と呼ぶ生徒がいました(私はgreatのgだと言っていましたが)。今、孫のような小学生といるとやっぱり『爺』だったのでしょう。健康が許す限りいつまでも横須賀学院と繋がっていたいと思うこの頃です。 

 
2019年 恩師近況へ
2018年 恩師近況へ
2017年 恩師近況へ
2015年 恩師近況へ
2014年 恩師近況へ