私が学院に就職したのは、1973年(S48)、クラス数が三年8、二年10、一年12クラスと急増する時期でした。この年、石川・大槻・河瀬・村岡・中島・浦田・井上美・鈴木久・井上英・藤野・松永の11人が採用されました。
新任教師のオリエンテーションの時、大きな身体の割にこまめに動き、先生方と妙に親しそうな新人がいました。同期の鈴木久男先生は学院の卒業生でした。
当時、野平先生を中心とするキリスト教青年会(Hi-Y)は学校の宗教行事を始め、擁護施設や老人施設の訪問なども行い活発な活動をしていました。夏のワークキャンプでは、傷んだ校舎や校庭の普請も行っていました。
ワークキャンプには、現役の生徒の他、卒業生や先生方も大勢参加し、野平先生を中心に大変家族的な雰囲気の中で行われていました。
1974年のワークキャンプでは、4棟(現2号館)とBグラウンドの間の道路舗装を行いました。大量のコンクリートが必要になり、校内ワークでは、初めてコンクリートミキサー車が入りました。道路は、素人工事なので分厚いコンクリート舗装になり、戦車が通っても壊れないのではないかと言われましたが、40数年を経て、大分痛みが目立つようになってきたのは、仕方のないことでしょうか。
原爆で、ご両親を亡くされた野平先生の広島に対する思いは深く、1975年さいか屋で「原爆の絵展」を開き、翌年の8月Hi-Yの生徒と広島を訪問、1979年の文化祭では「原爆写真展」も行いました。平和を願い、厳しくも優しく愛情を持って生徒に接する野平先生の姿が思い出されます。
先生は何かするときにはいつも「心と身体と頭を使いなさい」と、おっしゃっていました。
五期卒業生の堀田明さんのところで行われる「八甲田ワークキャンプ」にも何度か参加させていただきました。寝泊まりしていた思い出の詰まった教会も今は新しくなっています。堀田さんとともに私たちを暖かく迎えてくださった奥様の志保子さんがこの5月に急逝されたのは本当に残念なことでした。
1975年(S50)10月10日、学院創立25周年を記念して、「稲花祭」が開かれました。
午前中はグランドでの競技、午後は各クラス工夫を凝らした仮装で学院前の三笠公園道路に繰り出し、Bグランドで,全校生徒の大フォーダンスで終わりました。
時の生徒会顧問の藤野先生が、実行委員長の大矢晴夫くんを中心に色々工夫・準備を重ね実施の運びとなりましたが、当日藤野先生は出張のため不在でした。大矢くんが立派に仕切ってくれ、大成功裏に終えることが出来ました。8回ほど続いた稲花祭も諸般の事情でなくなってしまったのは、残念でした。
少し近況を報告しますと、退職後、癌が見つかり手術をしました。手術後二年程になりますが、さいわい経過は順調で、少し声が出にくくなったほかは、元気に過ごしています。
退職後は、三眼顕微鏡を手に入れ、近隣の海や池などから水を採取し、珪藻やプランクトンなどを見たり写真に撮ったりしています。望遠鏡で星を見るよりは、天候に左右されず、気ままに見ることが出来、楽しんでいます。
体力(年齢)的に、高い山は厳しくなっているので、「いるか丘陵」(多摩丘陵から三浦半島へ続く“イルカ”の姿をした丘陵域)の背中からしっぽのあたりを歩いています。
また、横浜の「こども宇宙科学館」でボランティアもしています。小・中学生が中心ですが、実験や工作の補助などをしています。驚きや感動を素直に表現するこども達は本当に可愛く、楽しく過ごしています。
長くなってしまいましたが、まもなく70周年を迎える学院で、41年間を過ごさせていただきました。まだまだ書ききれない思い出が、次々と浮かんできます。担当したクラスやクラブのこと、 家族のように仲良くしてくださった先輩の先生方、同僚の教師、いろいろな面で助けていただいた事務や営繕の皆様。すべての方に感謝です。
街で、学院の制服を見かけると、思わず声を掛けたくなりますが、不審者と思われそうなので我慢しています。 学院が益々発展することを祈っています。 (2016.9.1) |